大判例

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東京高等裁判所 昭和32年(く)46号 決定

請求人 裴尚烈

〔抄 録〕

よつて、当裁判所は一件記録を精査し、更に、事件発生の現場たる浜松市小沢渡町二、五四四番地及び同町二、四二八番地附近を検証し、また、証人として柴田貞彦、鈴木徳治、太田菊治を取り調べた外、被疑者小杉精治につき、精しく事件発生に至るまでの経過並びにその模様を究明し、抗告人裴尚烈の提出にかかる上申書(昭和三二年九月二一日附)の内容を仔細に検討した結果、本件事案の真相は次のごときものであることを知つた。すなわち、昭和三一年一一月二四日午後一一時三〇分頃、浜松中央警察署小沢渡巡査駐在所勤務の被疑者小杉精治は同署新橋町巡査駐在所の竹下巡査からの電話による指示に従い、電話線盗難の個所を捜査すべくその駐在所を立ち出で、途中で偶々盗難現場を見ようとして来合わせた浜松電話局線路課工事班員柴田貞彦と出会つたので、これと共に、右警察署の西北方通称八幡山から一五〇米位西方にさしかかつたところ、そこに敷設してある浜松電話局電話線第八七号電柱の附近で、八百屋籠を自転車に結びつけている裴(当時一八年)を発見したが、その籠の中には賍品と認められる電線がぎつしり詰つており、右電柱からは切断された電線が垂れ下つていたので、同人を電話線窃盗の現行犯人と認めて、これを逮捕しようとした。ところが、同人は附近の田畑を逃げ廻り、逃げおうせないと知るや、逮捕を免れんとして却つて被疑者等に立ち向い、「おれは空手二段だ、手前らをのしてしもうのはわけはない」などと豪語し、いきなり手拳で被疑者等両名の顏面を殴打し、或は被疑者の脇腹を蹴り上げる等の暴行を敢てし、被疑者に対しては全治一週間を要する前頭部口唇内部各擦過傷、右側季肋部打撲傷を、また、柴田貞彦に対しては全治五日間を要する右鼻根部右耳前部各擦過傷を、それぞれ負わせ、両名の勢のひるむ隙に逃げ去つたが、尚も追われるままに、附近の畑地を走つている内に、道路との境に棒杭が数本立つているのを見つけ、その一本(長さ約九八糎、直径約八・五糎のもの)を両手で引き抜き、「この野郎、ぶち殺すぞ」とわめきながら、被疑者に向つて襲いかかつた。元来、胃弱で、それまでの立ち廻りによつて、かなり疲労していた被疑者は思わぬ裴尚龍の攻勢を見て、たじろぎ後退して難を避けようとしたが、つまづいて転倒し、所携の警棒をとり落した。そこで、他に執るべき途はないと観念した被疑者は右膝を地についたままの姿勢で、けん銃をとり出し、裴尚龍に対し「抵抗するな、射つぞ」と警告したのであつたが、同人は少しも屈する様子はなく、一米位の距離にせまつて、今や、被疑者の頭上に棒杭を打ちおろそうとした。そのときの裴尚龍の態勢は野球戯において打者がバットを振り上げたときのそれのように、その背部を半、被疑者に向けていたのである。突嗟に、右後方に数歩位の距離を飛び退きざま、被疑者は右けん銃を発射した。かくて弾丸は裴尚龍の背部中央から左胸部を貫き、よつて翌二五日午前一時過ぎ頃、同所から同市元城町一番地山田病院へ収容する途上のパトロールカー内で出血多量のため、同人を死亡するに至らしめたのであつた。

そこで、考えてみるに、裴尚龍は窃盗の現行犯人であつた。被疑者小杉精治は、これを逮捕しようとする警察官であつた。そうして、この逮捕を免れようとして右被疑者に加え又は加えんとした裴尚龍の暴行又は攻撃的態度は、まさに、不正の侵害というべきものであり、前叙のごとく転倒して未だ起き上らず、僅かに膝を地についたままの姿勢にある被疑者に対し、ただ一米位の距離をおいて前示のごとき杭棒をもつて打ちかからんとするがごとき攻勢は、まさに、急迫な侵害状態であつたというべきである。敗退的態勢を執らざるを得ない苦窮の境に追い込まれ、しかも、尚、現行犯人を逮捕しようとする警察官としての自覚を失わない被疑者が、事茲に至つて自己の生命乃至は身体に対する危険を直感し、本能的にこれを防衛せんとするの挙措に出たとしても、それは、まことに自然の数である。すでに、警棒をとり落していた被疑者が、かかる攻勢を排撃する手段として、所携のけん銃を使用せんとする措置に出たのも、その具体的事情の下においては、やむことを得ざる所であつたということができるが、しかも、該けん銃を発射するについても、被疑者において裴尚龍を殺害するの意思までをももつていたとは、とうてい、いい得ないのである。弾丸が裴尚龍の背部に命中したとしても、これは決して、逃げ行く同人を背後からねらつたのではない。このことは、被疑者の供述を不当に有利に過信していうのではない。裴尚龍のそのときの態勢が前叙のごときものであつたればこそ、まさに証拠上示されているような結果となつたのである。被疑者にとつても、意外とする事態の発生したことに心痛したことは、むしろ、その供述するとおりであつて、敢て怪しむに足りない所といわなくてはならない。

してみれば、裴尚龍が被疑者のけん銃発射によつて死亡するに至つたとしても、被疑者の該所為たるや、刑法第三六条第一項にいわゆる、急迫不正の侵害に対し自己の権利を防衛する為め、やむことを得ざるに出でたる行為に該当するものというの外なく、従つて該所為は違法性を阻却するというべきである。しかも、警察官けん銃使用及び取扱規範(昭和三〇年八月四日警察庁訓令第一四号)によれば、警察官は兇悪な罪を現に犯した者を逮捕するために他に手段がないと信ずるに足りる相当な理由のある場合には、その目的を達成するために必要な最小限度において、けん銃を撃つことを許されている。この点から考えてみても、被疑者の右けん銃使用行為をもつて、まさに、正当行為の範疇に入るべきものということができる。で、あるから、被疑者の該所為たるや、刑法第一九五条第一項第一九六条はもちろん、その他刑法所定の如何なる構成要件をも充足するいわれはない。然らば、被疑者に対しては公訴を提起するに由ないものというべきであるから、被疑者に対する不起訴処分をもつて相当なりとして、抗告人の被疑者に対する審判の請求を棄却した原決定は、その趣旨において、これと見解を同じくし、結局正当であつた。

(中野 尾後貫 堀真)

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